名詞
五奉行
五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基づき、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物たちを指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、豊臣秀吉は三成ら側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に徳川家康以下宿老を「御奉行」と呼ばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。また、秀吉の死後に三成たち側近が自分達が政治運営の実務を担う「年寄」で家康たち宿老は秀頼成人までその意思を代行する「奉行」に過ぎないと位置づけたのに対し、家康とその支持者たちがその位置づけを拒絶して彼らを従来通り「奉行」と呼び続けたのだとする指摘もある(奇しくも奉行を「年寄」と表記した文書の発給者と「奉行」と表記した発給者は、関ヶ原の戦いにおける西軍参加者と東軍参加者とほぼ重複しているという)。
(出典: 五奉行 - Wikipedia)